ADHDだなんて言われた話
今年もあと数週間ですけど、そういう実感がまだ湧いてきませんね。
みなさんは、個性についてどう考えているでしょうか?
絵や歌やスポーツなどと言った、胸を張れる特技イコール個性という人もあれば、優しさや明るさが個性という見方をする人もいます。
それらは生きているうちに少しずつ露わになってくると考えられがちですが、精神学の観点から見れば、それは全く逆だと言われています。
つまり、精神学では、生まれたままの赤ん坊が一番個性的とされているのです。なぜなら、人間は社会のルールを教わりながら成長する生き物で、その過程で、ルールに塗りつぶされていくのが宿命だからです。
畑のように、秩序をならしそこに植わった野菜こそが人間。不揃いで、本来ならばそれが当たり前なのに、形の悪いものは廃棄されてしまう。みなさんも少し心当たりがあるのではないでしょうか?
しかし、野菜は野菜であり、人の口に入ってしまえばおんなじです。
生きにくさを感じる
私は小学生までは大丈夫だったのですが、中学時代から、徐々にまわりと自分の違いに悩まされるようになりました。
私はいわゆるコミュ障というやつで、うまくコミニュケーションがとれないということに対してまわりは違和感を覚えていたんだと思います。
障害なの?
とか
そういうキャラを演じているんだろ?
みたいなことを常に言われていました。あまりにクセが強すぎたみたいですね。
それから結構経ちましたが、未だに私は変わっていません。私は専門学校に通っていましたが、そのお友達からこんなことを言われました。
〇〇ってADHDなの?
はじめて言われたなぁ、そんなこと。 なんて感想を抱きました。後から思えば、
お前、ADHDについて本当は何もしらねぇだろ
とか言ってやればよかったなって。
ADHDとは?
ADHDというのは、落ち着きなく、集中力がうまく続かないと言った類の発達障害です。ADHDに限らずこう言ったものの本質はとても哲学的で未だに答えが見えない問題です。
こういう言葉を中途半端に知ってしまったが故、他人のことを安易に言葉で括ってしまうことはよく起こることです。
ですが、それとは別に、自分の中に、ADHDという新しい個性があるんだなという発見がありました。やや精神的に他とは遅れをとるものの、それが人間の「味」になっていると。
昔から、「変わってる」だとか、「不思議だね」と言われるのが嬉しい人だったので、これも、ADHDもある意味スパイスだったんだなと(笑)
よく、障害は乗り越えていくものだ!という言葉を聞くこともありますけれど、乗り越えようにも、乗り越えられない壁なんか世の中にはいくらでもあります。
乗り越えることができないからといって変に気にしすぎてしまうと、それ以外のことが考えられなくなってしまうんです。
人間には精神が高いレベルまで発達する人と、低レベルで打ち止めになってしまう人とで個体差あり、20歳で成長は横ばいになるのがほとんどだと、私の愛読書に書いてありました。どう頑張っても、「完成」してしまえば、それ以上は上には行けないと。これを見て、「ああ、人間は残酷だな」と感じました。
大事なのは理解
私は、よく、見かけだけで人を判断しがちな人は冷静になって考えて欲しいです。その人の生き様やバックグラウンドを、どこまで知っているのか?ということです。だってそうでしょう?ADHDだなんてなんとなく知っていても、attention defict/hyperactivity disorderという正式名称は誰も答えられないでしょうから。
1の決めつけより100の疑問
そもそも、上記の判断は、個々の「区分け」を便利にするために使われています。医療では、病気を見つけたら、その症状に見合った薬を出しますよね?でも、心に効く薬はありません。だからこその「区分け」でありまして、そこから治療を考えるという意味では、悪い考え方とも言い切れません。
いいように使えば、医者でなくとも判断はできます。でもそれは、理解が面倒だからに過ぎません。そこから思考は停止してしまうのです。
まず、知ろうとはしないまでも、疑問に思ってください。
「これっておかしいよね?」
とか
「なんでそういわれるんだろう?」
ということです。
個性と言いきる!
私は、根に持ちやすいんですよね(笑)過去に言われたこととか。でもだからこそ、同じ立場の人と共有できる何かがあります。
どんなにひどいことを言われようと、どんどん根に持ち、首を突っ込んでみる。そんな考え方があれば、もっと今を生きることのできる考え方ができるようになります。
できれば、言われた側ではなく、言った側の人にも考えて欲しい問題ではありますが、そっちの人にとっては1日で忘れるようなことだと思うので、色々書きましたが、深く考えなくていいですよ(笑)
弱点こそ個性です。 気楽にいきましょう。